2007年 11月 17日 土曜日
稲尾さんが亡くなった!
この記事を書いた人
こんにちわ!売買営業部の渋田です。
子供のころの思い出で少しでも昭和一桁のひとりの日本人
が過ごした時代を知って戴きたいと、かなりアイマイな思い出話を書いてましたが、
今日は、ズット現代に近い昭和20~30年代の大事なエポックだった”西鉄ライオンズ”栄光時代の立役者稲尾和久氏が亡くなったので、どうしてもこの頃の思い出を書かせて下さい。
1.大学生の頃の最優良のアルバイトは、今は無い「平和台 球場」の場内監視でした。当時の「平和台球場」は外野側は石垣だったのでよじ登って入ろうとする無銭入場者が多かったのです。
2.3番打者中西が昭和27年、2番打者豊田が昭和28年そしてエースピッチャー稲尾が昭和31年の入団で、私は昭和27年に社会人になったので同世代の親近感がありました。
3.西鉄ライオンズ黄金時代は、東京勤務でしたが、社内に仲間が20人ぐらいいて、ベースボールマガジン社発行の”西鉄ライオンズ”を回し読みしていました。
4.あの有名な逆転優勝のときは、後楽園球場とお座敷テレビで、7戦全部を「巨人ファン」に囲まれて応援しました。
1番センター高倉・背番号25、2番ショート豊田・背番号7、3番サード中西・背番号6、、4番ライト大下・背番号3、5番レフト関口・背番号27、6番ファースト河野・背番号9、7番ショート仰木・背番号5、8番キャッチャー和田・背番号12そして最後にピッチャー稲尾・背番号24というアナウンスを聞いたときは、1塁側も3塁側も大声援で沸いてました。
5.大投手稲尾時代には、主としてテレビで声援を送るだkでしたが、あの温厚な稲尾さんにお目にかかってお喋りが出来たのは東京で定年を終えたあと暫らくして福岡へ帰るときの羽田空港待合室でと某他チームの野球選手の野球殿堂入り祝賀会、そして私どもの”家主様感謝パーティが最後でした。
訃報を聞いた時は、年令違うもののなんとなく青春が消えたような気がしたので、失礼いたしました。